【無定期連載書評】
『「ことばの市民」になる』とは — 自由の顕現にむけて

谷岡ケイ(ケイ商店)

細川英雄(著)
『「ことばの市民」になる―言語文化教育学の思想と実践』
ココ出版,2012年刊.

もくじ

はじめに — 自由の顕現にむけて

自由は,精神が備える根源的な特性だ。ただし,精神において自由は特性として潜在しているまでである。一方,精神は,言語において実現している。ここで言う言語はかなり広い意味で捉えたものとしても,それでもなお言語は,知識という不自由な制度である。したがって,言語の探求を続けようとも,自由という精神の特性を顕現させることは出来ないはずだ。

しかし,細川英雄が言語教育実践によって実感したのは,この言語に関する活動を通じて自由を顕現させるきっかけを確かに掴むことができるという確信だった。なぜ不自由な言語にまつわる活動が精神の自由を実現できるのか,そこでの言語とはいったいどんななのか。それへの回答が「ことばの市民」である。

「ことばの市民」の「の」は,同格の助詞である――表紙には“the citizen through language”とあるが。ことばである市民,ことばとしての市民,ことばがどこかに外在するのではなく,自らもまた市民としてことばそのものであるという言語観の表明である。ここには時枝誠記の影響があると言うが,時枝が音声と文字という媒介の存在を前提とし続けざるを得なかったのに対し,感覚・思考を含む一切の行為,つまり時枝の言った「生の営み」「生活」そのものまでをその射程としている。

「ことばの市民」は,これら生活を,民主的手続きの下に絶えず構築し続けるべきもの(つまり「ことば」)としてとらえる。対話という個人間関係は,執筆という公的構造化を経て,公開という公共化によって小さな「ことばの市民」となる。さらに,こうした小さな「ことばの市民」は,常にさらにより大きな公共化に向かうべきもの(たとえば,査読を経た論文化,実践研究フォーラム等制度としての実現,NPO法人や大学院の創設といった組織化)とされ,現状を個人に回収してしまう,そんな不自由へとは決してむかわせない。

他方,不自由へとむかわせる営みが「ことばの市民」の世界へと侵入することには,猛然と反対する。たとえば日本語教育の準備主義的性質は,社会文化能力という発想をはじめ,自由な精神の活躍の場を現状の実体化によって不自由にするものとして徹底的に批判される。文化については,「日本事情」研究から展開された文化本質主義批判にはじまり,それを「個の文化」として個体に回復させようとする試みを経て,個人から国家に至るまで生活のあらゆる局面で民主的手続きによって共に精神の自由を具現化する「ことばの市民」へと至るまで,かなり執拗に取り上げており,言語教育における不自由を産出するキー概念としてみなされていることがわかる。

ただし,「ことばの市民」から導出されるのは,文法はいらない,誤用の訂正はよくない,正しい表現などない,というような一連の安易な反規範主義では決っしてない。むしろ,規範は規範として内容だけでなくその存立意義から徹底的に問い直されるものとなる。たとえば文法は,民主的手続きの公理,つまり精神が共通にもつと承認しあえる原理の記述として,極めて重要な体系であることになるし,誤用は誰が何をもって正しさとして認め合うことでさまざまな合意が実現できているのかを探求する上で重要な気づきを与えるものとなる。これらはすべて自由を実現する原理において厳しく捉えなおされるべきものとして位置づけられよう。当然,言語学の知見をそのまま教育にもちこむ,というような応用主義的発想とはまったく相容るものではない。文法にしろ,誤用にしろ,それぞれの探求もまた「ことばの市民」としての活動として厳しく捉えなおされるだろう。

このように,本書が到達した「ことばの市民」という言語教育の思想は,言語による,でも,言語を用いた,でも,言語に関しての,でもなく,生の営みを市民化=ことば化することによって精神の自由をこの世に顕現させるプロセス,これを教育とみなすものである。本書は,その思想に至るまでの細川自身の思想を,学習者主体,文化の捉え方,ことばと文化の統合,実践研究,母語と第二言語の教育的結合,の5つのテーマの下に,紀伝体風にたどる歴史物語であり,その物語から具体的な「ことばの市民」像を掴むことができると想定された編集になっている。しかし困ったことに,それが具体的に何を意味するのかについては,つねに「ことばの活動によって」「ことばの生活を」など,肝心のことばや言語についての説明に「ことば」という語を用いているため,同語反復の印象を免れえない。そこで,本稿では,以下,自由の顕現に向けた教育思想として各章を解題していくことで,「ことばの市民」の具体像へと迫る。

細川が愛してやまない自由と言語が,精神のアンチノミーを克していかに実現していくのか,それこそを本書では堪能したい。

ちゅう